2022年01月02日

日本から少し遅れて2022年 

文藝春号の特集「母の娘」に寄稿しました。今回もイケイケやね文藝!
タイトルは「ママと戦う」、渾&身の短編です。
今年も短編連投してゆきたい所存です。
2022年も、どうかよろしくお願いいたします。



2022年01月07日

「おおあんごう」

加賀翔さんの初めての小説、は、「この環境で生を受けたことの呪いと祝福」を、描いていると思う。
それは、言葉に似ているのじゃないか。
言葉は、「存在していたけれど名付けられなかった何か」に名を与え、祝福すると同時に、その何かの「意味以外の可能性」を禁じる、呪いのような側面もある。
大地は、「あの父の息子」として産まれたことで、「幼くして正しい大人にならなければならなかった」呪いにかけられている。
でも、「あの父の息子」として産まれたことで、こんなにも繊細で、優しく、美しい人間になった。それはまぎれもない祝福だ。(それはもちろん、母や祖母、友人の力も大きい)
呪いと祝福、相反するように見えるものはあらゆる場所で共存していて、例えば私には、この小説そのものが泣き笑いをしているように思える。

「ぼくにはこの父親しかいない、それを笑ってくれたことが嬉しかった。父のことは嫌いだけど、嫌いだとしても受け入れて笑うことができればいいんだと教えてもらえた気がする。」

2022年01月13日

あまりに非凡な、

新潮2月号に、小池水音さんが「夜が明ける」の書評を寄せてくださっています。
今作だけではなく、過去作も含め、真摯にみつめてくださったその軌跡を、誠実な文章で表現してくださっています。胸が熱くなりました。
同誌には、村田沙耶香さんの「平凡な殺意」という、非凡な、あまりに非凡な、凄まじいエッセイも掲載されています。必読です。

「カンバセーション・ウィズ・フレンズ」

サリー・ルーニーの小説は、「Normal peaple」然り、自分の心めいたものの中の、もうここは全部開け尽くしたな、と過信していた場所を開けられるような気がする。
どちらも友情の物語と言っていいと思う。
「友情」という言葉にも、「愛情」と同じように「情」がある。その情動を、できうる限り冷静に見つめている。
所有するという行為についても書かれている。持てる者、持たざる者。
全ての人間はだれかを所有することはできないけれど、主人公たちは、情そのものも、なるだけ「所有」せずに、自分から離して見ているように思える。そして自分から離して見たそれは、紛れもない自分のカケラなのだった。それが美しいかどうかは別にして。
(山崎まどかさんが、ボビとフランシスがお互いを呼び合うyouを、「君」と訳しているのが、すごく嬉しかった。)

 メリッサは歯を見せて笑った。それに若さと美しさの持つ効力は侮れないよ、彼女は言った。
 その二つって猛烈なまでの不幸を呼ぶ組み合わせじゃないんですか、私は言った。
 あなたは二十一歳でしょ、メリッサは言う。猛烈に不幸で当たり前じゃない。

2022年01月25日

優しい暴力の時代

チョン・イヒョンの「優しい暴力の時代」は、静かだ。
どの短編も、静かに、こちらに語りかける。
それは、過去のカプセルの中に閉じ込めた人生の欠片を、語り手が思い出しているからだろう。
思い出す行為は、いつだって静かだから。
手を伸ばしても、もう届かない過去のあちこちに喪失があり、痛みがあり、それは優しい暴力となって語り手を襲う。
それでも私たちは、思い出すことをやめられない。
痛みを伴う行為としての「思い出す」ことは、同時に、私たちを前に進ませることでもある。

私はときどき考えてみたものだ、年収の半分近い学費を払って私を東京のインターナショナルスクールに入れたとき、両親は娘がどんなふうに生きることを望んだのだろうと。韓国人でも日本人でもない、いわばコスモポリタンみたいな人になってほしいと強く願ったのかもしれない。それはともかく、私がそこで最初に覚えた言葉は「ブタ」だった。豚という意味のの日本語。どこの国でもインターナショナルスクールの子どもたちは、悪口は現地語で言う。私がいちばんいっぱい聞いた言葉も「ブタ」だった。