私はテヘランで産まれ、カイロで育った。1977年に産まれ、1979年には革命が起こって帰国したので、テヘランのことは覚えていない。だが、カイロにいたのは7歳から11歳の多感な時期であったから、そのときの体験は強烈なものとして私の中にある。
カイロ、と聞いて真っ先に思い出すのはアザーンだ。人々を祈りに誘うその声は、歌のようにも聞こえたし、泣き声のようにも、誰かを慰める声のようにも聞こえた。言葉をまったく理解出来なかったからこそ尚更、その声の奥にある切実さやまっすぐな想いは、私の心に届いた。
アザーンが聞こえると、人々はどこであろうとサッジャーダと呼ばれる礼拝用のカーペットを敷き、それを持たないものは地面に直接ひざまづいて祈りを捧げた。祈りとは教会で、または神社で、つまりなんらかの決められた場所でするものだと思っていたから、彼らのやり方に私は驚いた。祈り終えると彼らはなめらかに自分たちの日常に戻った。祈りと日常の間に境がなかった。「一応仏教徒」である私が初めて触れた信仰は、とても美しかった。
私が住んでいたフラットのボアーブ(門番)も、敬虔なイスラム教徒だった。年老いた男性で、すごく太っていて、いつも顔をくちゃくちゃにして笑った。多くのエジプシャンと同じように子供が大好きで、だから私のことをとてもかわいがってくれた。フラットの前に置いてある椅子に座り、お茶を飲み、私の姿を見かけると、必ず手を振った。
私は彼が祈っている姿を、何度も見たことがあった。彼は時間になると熱心に祈り、そして祈り終えると、なめらかに彼の日常に戻った。お茶を飲み、私に手を振り、そしてあの笑顔を見せた。その姿は他の信徒と同じように美しく、私をいつも感動させた。もちろん、私は彼のことが大好きだった。
クリスマスの朝のことだ。彼はフラットを出た私に、メリークリスマス、と声をかけてくれた。私も「メリークリスマス」と返した。家に帰って家族にその話をすると、両親は「イスラム教徒なのにね」と言って笑った。両親も彼のことが大好きだった。私たちはエジプト人が好むいささか甘すぎるケーキを食べ、クリスマスを祝った。私たちも仏教徒なのに、とは、誰も言わなかった。
カイロにいた数年間、私は様々なイスラム教徒に出逢った。彼らは一様に敬虔だったが、その敬虔さによって自分が疎外されていると感じることは一度もなかった。ただの一度もだ。
それはひとえに、彼らの柔らかさによってではなかったか、そう思う。
彼らの信仰は強かった。彼らはイスラム教という強い枠の中にいた。だが彼らはその枠を使って我々を排除することはしなかった。彼らの枠は強かったが、とても柔らかかった。彼らは「異教徒」である私と交わろうとしてくれた。
メリークリスマス、と優しく言ってくれた彼の柔らかさは、彼のためではなく、私のために、つまり他者のためにあった。そしてそのことで、彼の信仰はきっと揺るがなかっただろうし、彼らの神を冒涜したことにもならなかったはずだ。それどころか、他者を思うその気持ちこそ、彼らの神が彼らに教えたことなのではなかったか。
我々は枠の中にいる。例えば国、例えば性別、例えば宗教。
そもそも私たちの体それ自体も枠だ。我々は枠からは逃れられない。でも、その枠を柔らかくすることは出来るはずだ。他者のために形を変え、寄り添うことが出来るはずなのだ。
今ISは、欧米列強が作った枠を壊そうとしている。だがその枠を壊したところで、彼らはまた強固な枠を作る。それは鋭利で、硬質で、枠外にいる者を徹底的に排除し、傷つけ、殲滅する。彼らは硬い。とにかく硬いのだ。それはきっと、他者と交わる勇気を持たない人間の硬さだ。
世界は曲線で出来ている。
思えば直線で出来ているものは、すべて人間が作った。頑丈なビルや道路、中東やアフリカに存在する定規で引かれたような国境。人間それ自体が曲線で出来ているというのに。
メリークリスマスと言い合ったあの瞬間、私たちは「イスラム教徒」でもなく、「仏教徒」でもなく、「キリスト教徒」でもなかった。もしかしたら「エジプシャン」でも「日本人」でも、「男」でも「女」でもなかったのかもしれない。我々は曲線で出来た人間同士として、「 」から離れ、あの柔らかな場所にいたのだ。私はその瞬間を忘れることが出来ないし、絶対に忘れたくない。他者のために柔らかさを選ぶ勇気を手放さないでいたい。